― 浮かんだノイズ ―
女は店内を見回すと天井のダンボールに目を留めた。
「あー、ずっとノイズが鳴ってうるさくてね」
俺が言うと、女は何か納得したように小さく頷いた。
「木村さんはその後、どうしてますか?」
「あ、ああ……」
俺は躊躇いつつも、スマホを取り出し電源を入れてみたが、やはりノイズ音が鳴った。
俺はノイズが鳴るままかまわずに、木村の動画チャンネルを開いて弾き語りをする木村を女に見せた。
「これならどこでも続けられるっていうことらしい」
「そうですか」
女は画面に興味を示すことなく言って、手を伸ばしてきた
「ちょっと見せてもらっていいですか」
俺の手からスマホを受け取ると、特に木村の動画に気を留めるようすもなく女は再生を止めた。
「このノイズ、ひどくなったのはいつからですか?」
「え? あー、三日くらい前かな」
俺はカウンターの中に入ると、グラスを手にして水道の水で表面を流した。物凄く久しぶりにグラスに触ったような気がした。
「アップルジュースですか?」
「あ、いえ……いいです」
女は立ったままで言った。
俺は一瞬、耳を疑った。
「え? あ、いや、うちも商売なんで、何か……」
俺は苛立ち、不満を露わにした。
しかし、女はそれを無視するようにステージの方を見てから、俺の背後の酒のラックを見た。
「あの……」
やはり飲む……? 今日は酒か?――
俺は慌てて表情を和らげるように努めた。
しかし、女は俺を更に不愉快にさせた。
「あの女性……奥さんですか?」
と、女はラックの端のフォトフレームを指さした。
俺は不快な気分と同時に、何か物凄く嫌な予感、恐怖のようなものを感じた。
そしてその恐怖心の反動は、この女への腹立たしさを増幅させた。
俺は女の問いには答えず、手にしたグラスを磨いた。
「客じゃないなら帰ってくれないか……」
そう俺が言い終わるよりも先に女が呟いた。
「奥さんじゃない……? なりたかった……のか……」
俺は思わず女の方を見た。 女はステージの暗がりを見ていた。
俺の中の得体のしれない恐怖心は更に広がっていった。
俺はそれに飲み込まれないよう、怒りに還元していった。
その時だった。
天井のスピーカーが、音をこもらせつつもダンボールの囲いを突き破り、甲高いノイズで響かせた。
俺はスピーカーを見上げた。
すると、今度は音量を下げたものの物凄い重低音で砂嵐のようなノイズを鳴らし続けた。
「やっぱり、このままにしておけないな……」
女が独り言のように言うのが聞こえたが、俺は無視して再びグラスを磨く手元に視線を落とした。
もううんざりだ。
このノイズにもこの女にも――
全く理解不能なことばかりだった。
俺が苛立ちでわなわなとグラスを磨く手を震わせていると、女が勝手に話し始めた。
「麻衣さんと遭遇したことに関しては偶然だったんです。この間初めて店に来た時、元々私が呼ばれたのは、あの女性にだったんですよ」
女が奥のステージを見て言っているのは声の聞こえ方で分かった。
そして、あの女性というのが誰のことを指しているのかも分かっていた。
しかし、俺は自分に言い聞かせるように頭の中で否定の言葉を繰り返した。
そんはずはない、そんなはずはない、そんなはずはない……
その時、天井から次々にダンボールが剥がれ落ちたかと思うと、全てのスピーカーからハウリング音が響いた。まだ、布が巻かれているため、こもってはいるもののビリビリと空気を震わせ叫ぶようなノイズだった。
「待って! 落ち着いて!」
女が叫んだが、ハウリング音が止むことはなかった。
「あの!」
女がこちらに向かって言っているのは分かっていたが、俺は顔を上げる事ができなかった。
「あなた何をしたんですか? 彼女に」
俺は何もしていない――
俺が何をしたというんだ?
そうだ、俺は何もしていないだろう?
俺は念じるように呟きながら、脳裏に蘇るあの日の記憶に手元を震わせた。
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