最終話 新たな隣人

執筆者 : 吉良朗

― 静かな隣人 ―

 この1か月の間に隣室には内装屋が入ったり清掃が入ったりで、昼間はガヤガヤと騒がしくなることが多かった。

 隣室が次のあるじを迎える準備が整ってから一週間ほど経った日曜日、その気配に先に気づいたのは和雄だった。

 ベランダにまわって、隣室を覗き込むとすぐに戻ってくる。

「なんか隣り、人が見に来てるぞ。二十後半って感じだな。夫婦っぽい」

「子供は?」

「いなかった」

「じゃあ今度は静かなんじゃない?」

「わかんねーけどな。まぁ、うるさかったらまた脅してやりゃあいいや」

「ちょっと、もうそういうのやめなよ」

 ひかりは実況ユーチューバーの事を思い出すと暗い気分になる。

 もう、人の死に関わるような事はしたくない……嫌だ――

「なんだよ……そんな恐い顔すんなよ」

 和雄はそう口にしてから、しまった、と思った。

 ひかりの顔の傷は痛々しいままだった。

和雄は少し口ごもってから、気を取り直すように続けた。

「まぁ、大丈夫だな。今度の奴ら、なんか真面目くさそうだし、騒ぐような感じじゃねーから。俺らももう静かなもんだし、もうトラブルことねーよ」

 和雄はひかりをおもんばかるように言ったつもりなのだが、ひかりはただ黙っているだけだった。

「どうした?」

 和雄はうかがうようにいた。

「ううん、どうしてるかな……って……」

「え?」

「シュン、元気にしてるかな? ちゃんとごはん食べてるかな……」

「え? あ、あー……」

 和雄は思わず言葉をにごした。

 いや、少なくとも俺らといる時よりはちゃんと食ってるだろう――

 そう言いそうになったのを飲み込んだ。

「この顔じゃ、会っても恐がるだろうしな……」

 ひかりは呟くと、その大きな傷を隠すように顔の右側を手でおおった。

 ひかりの左側の顔を見て、和雄ははっとした。

 素直に美しいと思った。

 と同時に、何か大切なことを自らの手で握りつぶしてしまったのだと、思い知らされたような気がした。

 慌てて和雄は頭を振った。

 自らのおろかかさを認めたくない気持ちが頭をもたげてきて、感傷など何の役にも立たない、と追い出そうとした。

 その時だった。

 隣りのベランダのサッシ窓が開く音がした。

 それを耳にすると、ひかりはベランダへ向かった。

 退屈さは、すぐにネガティブな考えを誘う。

 ひかりは、少しでも気をまぎらわしたかった。

 ひかりは聞き耳を立てながら、そっと窓を開けて隣りのようすをうかがった。

 隣りのベランダでは女が外の景色を眺めていた。

 駅が近いので目の前はゴチャゴチャしているが、遠くを望めば山々とその稜線りょうせんが見える。

 女は笑顔を浮かべていた。

 横顔が綺麗で、随分大人っぽいひとだな、とひかりは思った。

 私もあんなふうに……

 すると、よくいえばベリーショートだが、おそらく本人的にはそのつもりはないであろう坊主頭に、真っ白なポロシャツをぴちぴちのサイズで着てゴルフパンツのようなスラックスを履いた男が部屋から出てきた。

 もうちょっと、着こなしどうにかすればいいのに……

 ポロシャツに続いて、スーツ姿の男も出てきた。

 ひかりは、あっ、と思った。

 記憶が曖昧あいまいだが、ひかりたちにこの部屋を紹介したのも確かこの不動産屋の男だったような覚えがある。

 ひかりはふとその頃の事を思い出して、少し淋しいような悲しいような、はっきりとしない感情が湧いてきて目頭が熱くなるような気がした。

 ポロシャツと不動産屋の会話から、どうやらポロシャツの仕事も営業職らしいことがわかった。

 お互い大変ですよねぇ、などと当たり障りのない雑談を交えながら、この物件を契約するかしないか、契約させられるか逃げられるか、腹の探り合いをしている。

 和雄が普通のサラリーマンをしていたら、どういう人生になっただろう……

 ひかりはそんな想像をしてみた。

 和雄のスーツ姿か……案外似合うかも――

 ちなみにひかりは、和雄のやっていたネット販売について、売ってるものが何かはしらないが、褒められたものではないということだけはなんとなく分かっていた。

 しかし、まさか空き巣や強盗の指示をしていたことまでは、夢にも思っていない。

 そして、ヤクザたちに襲撃されたのも、行きがかり上のやんちゃの末の単なるトラブルだと今でも思っている。

 ふと気がづくと、外を眺めていた女がいつの間にか、ひかりの方を見ていた。

 ひかりは驚いて体を硬直させたが、女はひかりに気づかず、平然としたようすで不動産屋に何か言いながら室内へ戻って行った。

 ひかりはひと息つくと、自分も室内へ戻った。

 あの隣人だったら、きっとトラブルの心配はないだろう……

 ひかりは、あの二人に隣人になってもらいたいと思った。

 そしてそう思うと、なぜだか分からないが楽しい気分になった。

 すると突然、ドアの向こうの共用廊下でガヤガヤと声がしたかと思うと、ドアノブが回される音がした。

 和雄の表情に緊張が走った。

 続いて、廊下から外の空気が室内へ流れ込んでくる。

 和雄が緊迫した眼差しでひかりの方を見る。

 しかし、ひかりはおだやかに黙ってうなずいた。

 一気に和雄たちのリビングがにぎやかになった。

「へえ、こっちも素敵。ちょっとリビングの形が違うのね」

「はい……えー、あー、こっちはキッチンが独立なんですよ……でもまぁ、向こうの方がカウンターキッチンでおしゃれですよ」

 女は嬉々とし、ポロシャツはその後について室内を見回している。

 いっぽう不動産屋は、強張った表情でそわそわしている。

「一応、こちらのご案内もしますが、やっぱり向こうの部屋の方がいいですよ。家賃もこの辺りの相場から考えたら充分安いですから。それにこっちは掃除や壁紙なんかの内装もまだですし、入居できるのもまだ先になるかと……」

「でも、こっちならもっと安くなるんでしょ?」

「えー、まぁ、私も、そのぅ……奥様が家賃のことを気にされてたので、つい、こっちなら家賃を抑えられるかもって言ってしまったんですけど……やはり、隣りのお部屋のほうが……」

 不動産屋は後悔したように、なんとも歯切れが悪い物言いで言葉をにごしている。

「でも、家買うまではなるべく節約したいし――」

 そして、ねぇ、とポロシャツに同意を求めるように言うと、女は不動産屋のようすなど気に留めることなく室内を見て回っている。

 不動産屋は、なかば助け舟を求めるような視線をポロシャツに送っているのだが、ポロシャツにその真意が分かるはずもなく、きょとんとしている。

 そんな三人のようすを和雄とひかりは、ただ眺めることしかできない。

 和雄はただ静かに、割れた頭からいつまでも乾かない血を垂らし――

 ひかりは、右半分を陥没かんぼつさせ肉片と化した顔、そして、そこから今にも零《こぼ》れ落ちそうに飛び出した目で――

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