霧の部屋

執筆者 : 吉良朗

【Web小説】霧の部屋

この病室で起きていることは何なのか――?

全身に痛みを感じながら目覚めると病室にいて――
身動きもできず、ベッド脇のカーテンにおちるサッシ窓の影を見ていることしかできない。
そして、気つくと部屋のようすは変化し、得たいの知れない声が聞こえてきて……

 気がつくと白っぽい石膏ボードの天井が目に入った。

 ベッドの上に寝ているのだとすぐにわかった。

 更に体のあちこちに痺れたような感覚と鈍く強い痛みを感じる。

 痺れ方が麻酔のように感じたので直感的に病室にいるのだろうと思った。

 体中に包帯を巻かれているのか、全身に軽く絞めつけられたような感覚もある。

 痛みとだるさで体を動かすことができず、僅かに動く手指には、ちりめん状の柔らかい感触があった。

 視線を動かすことはできたので、周りを覗ってみると、閉じたカーテンに囲まれていた。

 顔にも包帯が巻かれていて、視界の端に白い糸がちらちらと見える。

 右側のカーテンにサッシの影がおちて、窓の形を映していた。

 きっとカーテンの向こうにすぐ窓があるのだろう。

 今が昼間だということは分かったのだが、寝がえりもうてないくらいに動かない体では時間が確認できない。

 そもそも周囲のどこに時計があるのかないのか、それさえも分からない。

 カーテンに映るサッシの影の形から、なんとなく午後3時くらいなのではないだろうかと予測する。

 自分がなぜここにいるのか、何があったのかまったく分からないのだが、今は寝ていることくらいしかできることはなさそうだ。

 交通事故にでもあったのだろうか――

 そう思って視線を天井に戻し石膏ボードを眺めていると、すぐに眠気が襲ってきた。

 気がつくと、周囲は薄暗いオレンジ色になっていた。

 夕方か……

 少し眠ってしまったようだ。

 そう思ったのだが、すぐに違和感に気づいた。

 相変わらず体の自由が利かないままで、視線だけで探ることしかできないのだが、先ほどまで周囲を遮蔽していたカーテンがなくなっている。

 いや、それどころではない。

 周囲に何もなく、天井さえも見えない。

 どの程度の広さなのかも分からない薄暗いオレンジ色の空間に、ただポツンと自分が置かれている。

 ここはどこなんだ……?

 そう思ったところで、更におかしなことに気がついた。

 弱々しいオレンジ色の光は、ロウソクの炎のように緩やかに明滅を繰り返しているのだが、その光に方向性がない。

 肝心の光源がどこにあるのか分からないのだ。

 ここが先ほどと同じ病室だとすれば、いや、そのはずなのだが、それならば本来仰向けになった目の前には天井があるはずだった。

 しかし、今、目の前にあるのはただ薄暗いオレンジ色の空間だけ。

 どこまで続いているのかその距離感がまったく分からない、ただ薄暗いオレンジ色の空間だけ・・・・・・・・・・・・・・・だ。

 すぐ目の前に、表面にまったくシワもなく何の質感も色ムラもない薄暗いオレンジ色のシートを広げられているようなそんな状態だ。

 視線を体の方に向けて確認しようとすると、首が先ほどより少し動かせることに気がついた。

 体の方を見ようと首を胸の方に曲げる。

 首の後ろの神経に痺れるような感覚と、表皮に突っ張るような鋭い痛みを感じたが、それが我慢できる程度まで曲げでみた。

 体には掛け布団などはなく、暗いオレンジ色に照らされているので本来の色がはっきりしないが、おそらく白色の病衣と思われるものを着けた胴体が見えた。

 おかしいのは、そこに立体感を感じないことだった。

 オレンジ色の光に照らされているのに、その着衣の表面の質感やしわなどの立体感がない。

 それどころか、襟の重なったところなどは本来下側が影で暗くなるはずなのにそんな陰影もない。

 このオレンジ色の光は、いったいどこから照らしているのか……

 不思議というよりも、ただただ気持ちが悪く、嫌な感じだ。

 ふと、何か小さな音が聞こえてきた。

 ここが四角い部屋だとするならば、ちょうど四隅にあたる方向からだ。

 幸いというべきか、この音には距離を感じることができた。

 音が壁の四隅から聞こえるのだとするならば、この空間は学校の体育館くらいの大きさだろう。

 その真ん中で、わたしは何かの台の上に乗せられている。

 音に意識を集中すると、それらが呟く声のようだと気づいた。

 しかし、小さくて何を言っているのかは分からない。

 更に集中して聞き取ろうとする。

 いつついつつついいつつつついいつつ……

 そんなふうに聞こえる。

 四方の声が重なって混じって聞こえるのを差し引いたとしても、単語であるとか言葉であるとかそういったものには聞こえない。

 不可解で嫌な感じ、聞いてはいけないもののような気がした。

 すると、右上の方からの声だけが突然止んだ。

 そうかと思うと、残りの三方向の声がゆっくりと近づいてきているのが分かった。

 逃げたほうがいい――

 そう思った。

 しかし、どうやって逃げるのか。

 体の自由が利かないうえに強い痛みもある。

 それでも今はどうにかして逃げるべきだ。

 だが、どこへ?

 この状況で逃げるなら、声のしなくなった右上しかないだろう。

 体中の骨や筋肉、神経に意識を巡らせると、肩をある程度と腰が少し動かせることが分かった。

 左右の肩を使って、カニの横歩きのように右側へ一歩一歩肩から上を横に移動させ、それを追うように腰をくねらせて胴体と脚を移動すればどうにかなりそうだった。

 ゆっくり試してみると、肩の肉や骨、伸縮する皮膚に痛みが走る。

 声は近づいてきている。

 落ちつけ。

 そう自分に言い聞かせ、痛みを我慢して肩を動かして横に移動した。

 思ったよりも台の縁まではすぐに辿り着けた。

 だが、新たな問題があることに気づいた。

 頭の右半分が台の縁から飛び出して宙に浮くような状態になるのだが、手足の自由が利かないので、このまま逃げようとしても受け身をとれないまま頭から床に落ちることになる。

 肩で横に移動した程度でさえ結構な痛みを感じるのに、そんな衝撃に耐えられるだろうか。

 それ以前にこの下は本当に床なのか?

 天井もあるのかないのか、果てがないように見えたのに。床も同じなのではないのか……

 そもそもすぐ下が床だとして、そのあとどうやって逃げればいいのか――

 考えれば考えるほど否定的な事しか浮かばない。

 気づくと、声は台のもうすぐそばにまで迫って来ていた。

 とにかく、まずは一旦逃げるしかない。

 問題は起きたその時に考えよう。

 そう思って、体を右にずらした。

 頭が台の外に出ると首に力が入らず下に垂れた。

 息が詰まる。

 もう少し右肩を外に出して体重を右側に乗せれば降りることができる。

 正確には落ちるのだが。

 意を決し、右肩を外側へずらしてそのままそちらに体重を傾けた。

 目の前が真っ黒になった。

 体が動かない。まずい……

 何もできず、どうなるのかと思いながら、息をひそめる。

 落ちた際に打ちどころが悪かったか何かのショックで、脳や視神経に障害が起きて目の前が真っ暗になっているのか、あるいは理由は分からないが、一切の光が消えて暗すぎて見えなくなっているのか、それさえも判別できない。

 パニックで叫び出しそうになったのだが、そこでさきほどの声も聞こえなくなっていることに気がついた。

 とはいえ安心はできない。

 次の事態に備えて、息をひそめたまま気分を落ち着かせるよう努力する。

 鼓動が早い―― 整えよう。

 もう一度耳をすまして確認する。

 声は聞こえてこない。

 すると、目の前をゆっくりと黒い霧が晴れるようにして視界が開けてきた。

 薄暗い中、目の前に見覚えのある石膏ボードの天井が見えた。

 先ほどの薄暗いオレンジ色の空間から、病室に戻ったということだろうか。

 夢……?

 そう考えるのが自然に思えた。

 周囲を覗おうとすると、首はだいぶ楽に曲げられるようになっていて、先ほどベッドと外界を遮蔽していたカーテンが、今は開け放たれているのが確認できた。

 右側は人ひとり座って少し余裕があるくらいの空間があって、そのすぐ先にサッシの窓が並んでいる。

 夜になったのだろう、外は暗くて見えない。

 何時なんだ……

 時間の感覚がまったくつかめない。

 体を起こそうとしたが、やはりまだ起き上がれるほど体は動かない。

 相変わらず首だけは動かすのが楽だったので、頭のまわりを見回してみたが、時計らしきものはなかった。

 左隣にベッドがあるのが分かった。

 2メートルほどしか離れていないのだが、暗くて頭のあたりはよく見えない。

 それでも誰かが寝ているようだということは掛け布団の盛り上がり方で分かる。

 掛け布団の足の方、右へと視線をずらしていくと出入口らしき四角い穴が見えた。

 それは文字通り穴……真っ黒な穴だった。

 ここが病室であるならば、自然に考えればそこには廊下があって、常夜灯でも点いているはずなのだが、まったくの暗闇だった。

 更に視線を右へずらしていくと、もう一つベッドがあった。

 そこにも人が寝ているようなのだが、暗くてほとんど見えない。

 四人部屋なのだろう。

 そう思って自分の足の先に視線を向けると、案の定、向こうもこちらに足を向けるかたちでベッドが配置されていた。

 こちらも誰かいるのは分かるが、暗いうえに頭が掛け布団の奥なので見えない。

 動かしやすくなったとはいえ、首だけ曲げているのが辛くなってきたので仰向けに戻すと、すぐ頭の左上に点滴がぶら下がっていることに気づいた。

 何の点滴だろう――?

 不安に思いながら眺めると、点滴のパックにはマジックで『五〇二あ』と書かれているのが分かった。

 これは、『五〇二号室の“あ”のベッド』という意味ではないだろうか。

 その時、ベッドの下から、さわさわさわ……と音がするのに気がついた。

 もしかしたら、先ほどからずっと聞こえていたのかもしれない。そう思いながら耳をすます。

 近くを川でも流れているのだろうか?

 目を閉じて、音に意識を集中させる。

 近くに川があるとしても、その音は近すぎるような気がした。すぐ下を流れているように聞こえる。

 こんな状況でなければ心地よくも聞こえたかもしれないが、今は不自然で不安になるだけだった。

 混乱しながら目を開けて心臓が縮みあがった。

 今度は、先ほどまで解放しきっていた周囲のカーテンがまた閉じられていた。

 続けて沢の音がほんの少し大きくなった。

 起きていることの正体が分からないのが不安でたまらない。

 ベッドの下が確認したくなる。

 分かれば案外大したことではないのかもしれない。

 そう思いたい。

 いや、気のせいだった、ということも十分あり得る……だろう……か。

 再び肩を使って横にずれていくことにした。

 やはり端まで辿り着いてから、どうやって覗くかの問題はあったが、頭をベッドの端から出せば、真下は無理でも脚の方の下側なら横目で確認できるかもしれない。

 そう思い肩をくねらせ右側へずれようとした。

 その時だった。

 右側のカーテンの向こうでサッシ窓が開く音がした。

 立て付けが悪いというようなひっかかりながら開くような音だ。

 えっ……!?

 息が詰まり、体が固まったように動けなくなった。

 耳を疑う。窓が開いたのではなく、風が窓を叩いたのではないかと考え直す。

 もし窓が開いたのなら、外の音が混じって聞こえてきて多少なりとも音が変化するのではないだろうか。

 だが、そのような音の変化はないように思える。

 風はどうか。

 風があればカーテンが揺れるだろうが、そのようすもない。

 ただ、風に関しては単純に吹いていないだけなのかもしれない。

 右側のカーテンに神経をとがらす。

 気のせい? いや、確かに聞こえた。

 いや、やっぱり風だろ。

 そう自分に言い聞かせようとした。

 すると、また音がした。

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……

 今度はそんな音だった。

 砂利の上を歩く足音のようだ。

 それも、音の聞こえ具合から、窓の外のずっと向こうからだ。

 カーテンで見えないが、開いた窓の外で誰かがこちらに歩いてくる。

 そういう音。

 なんで足音‥‥…?

 点滴に書かれた『五〇二あ』が部屋番号とベッドの位置を示すものであれば、ここは5階のはず。

 そんな上空で足音がするはずがない。

 そもそも先ほどからすでに “そんなはずのない・・・・・・・・” おかしなことばかり起きているのだが……

 もう一度点滴を確認するが、やはり『五〇二あ』となっている。

 足音が窓際まで近づいてきた。

 息を静かにのみ、顔は天井に向けたまま、視線と意識をカーテンの向こうに向ける。

 足音が当たり前のように室内に入ってきてカーテンのすぐ向こうで止まる。

 ただ、室内に入ったのに足音は変わらず、砂利を踏むような音を鳴らす。

 カーテンの一部が揺れた。

 こっちに入ってくる!

 そう思うと、反射的に目を閉じてしまった。

 要は寝たふりなのだが、体がまともに動かない状態ではそれくらいしかできない。

 ベッドのすぐ右側にそれ・・が立つ気配がした。

 そこからしばらく“さわさわさわ”という音だけが聞こえる時間が過ぎていく。

 じっと、それ・・に観察されている、そんな気がした。

 何が起きているのか分からなくて、目を閉じているのが苦痛になってくる。

 目を開けて確認したい。

 なんでもないと、思い過ごしだったと安心したい。

 息が苦しい。

 我慢しきれず、恐る恐る眼を少し開いてみた。

 そこに誰かが立っていた。

 だが、薄目では相手の顔が見えるほどの視界の広さはない。

 暗いのでなおさら確認しにくい。

 恐怖心は癒えるどころか、何者かがそこにいるということを認識してしまったことで、いよいよ耐えきれないものになってくる。

 これ以上、何が起きるかは分からないが、せめて相手が何者であるかくらいは確認したい。

 静かにだが、一気に瞼を開いた。

 真っ白だった。

 それ・・は真っ白い人の形をしていた。

 ただ、全体的なシルエットが霧のように曖昧で、目と口にあたる部分にだけ真っ黒い空洞のような穴が開いていた。

 その穴がじっとこちらを見降ろしている。

 声を出しそうになってしまうのを慌てて止めると、思わず呼吸も止まる。

 それ・・の頭部がこちらに倒れてきた。

 黒い穴がゆっくりと眼前に迫ってくる。

 目を閉じてしまおうかと思ったが、もうそれさえもできないほど体は硬直していた。

 黒い空洞と目が合う。

 それ・・はそのままじっとしている。

 息が苦しい。

 すると、また足音が聞こえてきた。

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……ザザッ、ザッ、ザッザザッ、ザザッ……

 今度は複数の足音が縦に列をなしてやってくる、そんな音だった。

 足音は次々と窓から部屋へ入ってくる。

 それら・・・は、たちまちベッドの周囲を取り囲んだ。

 だが、それでもまだ足音は聞こえ続け、次からつぎに窓から入ってきて周囲に群がる。

 周囲を囲む白いそれら・・・の輪は層のように重なって、人だかりのようになっていく。

 何か冷たいものが耳のあたりに触れた。

 瞬間、目を閉じてしまった。

 まずい?!

 二度と目が開けなくなる……

 そんな気がして慌てて目を開いた。

 眩しい――

 目の前が真っ白だった。

 何もはっきり見えない。

 周りで声がするが相変わらず何を言っているのか分からない。

 そのうえ耳を塞がれているような、膜がかかったような、そんな聞こえ方で気持ちが悪い。

 その声に混じって、何か電子音のようなものや圧縮された空気が繰り返し抜けるような音や小さな金属がぶつかるような音が重なって聞こえる。

 また、違う部屋かどこかにいるのだろうか……

 そう思っていると、意識が飛んで行くような感覚が襲ってくる。

 そうかと思うと、次の瞬間目の前に石膏ボードの天井が現れた。

 病室のベッドの上だ――

 一度和らいだと思った鈍痛はまた酷くなっていて、動かせるようになったはずの首や肩も、また動かすことができなくなっていた。

 やはり視線だけは動かせたので右のカーテンを見ると、外光がサッシ窓の影をカーテンに映している。

 左側を見て点滴を見上げた。

 そこには『四〇二あ』と書かれている。

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