― 浮かんだノイズ ―
あの夜、俺は、ステージの上でだらりとぶら下がっている美樹を、しばらく突っ立ったまま眺めていた。
ライトで見回した時には手前のテーブルや椅子に隠れていて見えなかったのだが、美樹の足の下には椅子が一脚転がっていた。
ふと我に帰り、俺は慌ててスマホを持ち直した。110にするか119にするか一瞬迷ったものの119に連絡する事にした。
しかし、番号を押そうとした瞬間、俺の中でアラートが鳴った。
俺は番号を押す指を止めてスマホをカウンターの上に置くと、何事もなかったように冷蔵庫に向かった。
カールスバーグの瓶を手にすると、一気に栓を開けて喉に流し込んだ。その瞬間、炭酸の刺激に呼応するように怒りが込み上げてきた。
俺の店でなんて事をしてくれるんだ。
最後まで最後まで最後まで最後まで……
死んでまで俺の足を引っ張りやがる。
俺は一気に湧き上がってきたものを抑えきれず、手にしていた瓶を美樹の抜け殻に投げつけた。だが、投げつける瞬間、さすがに躊躇したため手元が狂った。
瓶は勢いを弱めたものの、軌道を大きくずらす事はなく太ももに当たり跳ね返って床に落ちた。
瓶の割れる音で一瞬、祟られたりしないか、という恐れのようなものが湧き上がったが、そんなわけないだろう、と自分に言い聞かせると同時に再び怒りで打ち消した。
『自殺者が出た店』などと噂になったら終わりだろうが!
せっかく築いてきたものが……
冗談じゃない、隠さなくては……
隠さなくては、隠さなくては、隠さなくては――
とにかく美樹を降ろそうと、その足下に転がっていた椅子に手をかけようとしてやめた。
そして、別の椅子を持ってきてその上に乗ったのだが、その時になって美樹の首に巻かれているのがマイク用のケーブルであることに気づき、再び怒りが込み上げてきた。
こんなこと……自分の物でやれ……
店のもの……俺のものを……なんてことに使いやがる――
マイクケーブルは打ちっぱなしの天井に這うパイプにかけられていた。
よく届いたな、と思ったが、周囲をよく見るとテーブルが一つ、いつもの位置からステージの近くに寄っていることに気がついた。
あれに乗ってマイクケーブルをかけたのか――
更にまた腹が立った。
テーブルの上に乗りやがって。
テーブルは食い物を乗せる物だ。
掃除をしないと福が来ないなどと自分で言っておいて、食べ物を乗せる物を汚しやがって。
そうか、だから死んだのか……
福に見放されたんだな――
俺は妙なことに感心し、なぜか思わず笑ってしまっていた。
俺は美樹の首からマイクケーブルを外そうとしたのだが、ぎりぎりと首に食い込んでいるうえに張りつめているため、体を抱きかかえ持ち上げて緩ませないと解けそうになかった。
俺はカウンターの下からハサミを持ってきたが、それでもなかなか上手く切れなかった。
ペンチじゃないとダメか……
バックヤードからペンチを持ってきた。
それでコードを切ると抜け殻は勢いよく落ちた。
よく知っている意思のあった者が、人形のように床に投げ出されるさまが不思議であり不気味だったが、それがまた滑稽にも思えてしまい再び笑いが込み上げてきて俺は吹き出した。
しかし、すぐに手のひらにじんじんと痺れるような痛みを感じた。
手のひらを見ると、横一文字に皮膚がつるつるになって光を反射していた。
美樹が落ちる時に、マイクシールドが俺の手の中で滑っていった時に、摩擦で皮膚が軽い火傷を負ったようだった。
俺は、体の中に沁みるように伝わってくるその痛みに顔を歪めた。
まさか、買ったばかりのレクサスをこんな事のために使うとは思わなかった。
畜生、ちくしょう、チクショー……
俺はアクセルを踏みながら、ハンドルを何度も叩き続けた。
そのまましばらく走り続けたところで、今度はあまりにも叩きすぎてハンドルが歪んだりしていないだろうかと気になり始め、それがまた俺を苛立たせた。
美樹と関わったばかりに……
なんで俺がこんなめに……
俺は自分の運の悪さを呪った。
近県のなるべく遠くの人気のない山中まで向かうと、夜通し穴を掘ってどうにか美樹を埋めた。
その帰り道、俺は明るくなっていく空を見ながら、無心になろうとただひたすらアクセルを踏み続けたが、なかなか土の中に埋もれていく美樹の姿は消せなかった。
そうだ。
無心になろうとするからいけないんだ。
別のことを考えよう――
そうして俺は、ふと芹香の事を思い浮かべた。
そういえば最近、店に来てないな……
あれ?
もしかして、車買ってから会ってない?――
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