第30話 アップルジュース

執筆者 : 吉良朗

― 浮かんだノイズ ―

 帰り際、女は六百円を請求してきた。

 俺は一瞬、意味が分からかった。

 なので、呆気にとられた表情でもしていたのだろう。

 女が続けた。

「本当はこのくらいの案件だと、七十万円くらいは頂かないといけないんですが、今だけ初回キャンペーン中なんで」

 七十万だと? しかも、お前が勝手にやったんじゃねーか?

 そんな俺の考えを読み取ったように女が言った。

「ほっといたら大変なことになってましたよ」

 だいたい、霊媒《れいばい》の初回キャンペーン、というのも意味が分からなかったが、そのキャンペーンで七十万が六百円になるって、どういう計算なんだ? そんなの最初っからそんな価値がない、つまりはインチキってことじゃないのか?

 俺がそんなことを考えていると、女が、そうだ、と言ってバッグから名刺をもう一枚差し出してきた。

「これ木村さんに。この間、渡しそびれちゃったんで渡しておいてもらえますか。麻衣さんの件、もう大丈夫だと思いますが、もしかしたらまた何かあるかもしれないので。あ、麻衣さんの時の料金はサービスでいいですから、そう伝えておいてください」

「だから、木村は田舎に帰ったって。あと、なんで俺は六百円なの?」

 俺はわざと不満げに言った。

「じゃあ六百円はいいんで、アップルジュースを一杯サービスしてください」

 女はどうやらこの間のアップルジュースの代金を回収することにこだわっているようだった。パックのアップルジュースをグラスに注いで六百円とっているのを知っていて、それが気に入らないとでもいうように……

 俺は少し思案して、六百円ではなくアップルジュースをグラスになみなみ注いで差し出してやった。

 女は勝ち誇ったように、アップルジュースを一気に飲み干した。

「ひとまず、今私ができることはしました。ですから、あなたもできることをしてください。彼女に何をしたのか私は知りませんが、彼女すごく怒っているようでした。なので、もしかしたらまた何かあるかもしれない。なるべくそうならないように、彼女の気持ちが本当に安らかになるだろうと思うことを努力してやってみてください。それが、本当の解決に繋がると思います」

 女はそう言うと、ごちそうさまでした、とグラスをカウンターに置き、店を出て行った。

 女が帰ると、俺は息をついて店内を見回した。

 何の気配もなくノイズも消えて、そこには静寂があった。

 翌日はやけに目覚めが良かった。何か俺の中からモヤモヤとしたものが抜けたようで、洗面所の鏡に映る自分の顔は晴れやかな表情をしていた。

 それから一週間。スピーカーのハウリングも何かの気配のようなものもぱったりなくなった。
 しかし、客足もぱったりのままだった。

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