― 浮かんだノイズ ―
俺は、磨いていたグラスをラックに置いた。
「いいですよ。どうぞ」
俺が言うと、女は軽く頭を下げてから木村と一つ席を空けて座ったかと思うと、すぐにスマホを取り出して操作をし始めた。
木村は女を見ながらスツールに腰掛け直すと、俺に苦笑いを見せて首を傾げた。
俺は、それには応えずにわざと真面目な表情で言った。
「早いけど開けるか」
「あー、俺やりますよ」
木村はドアへ向かおうとする俺に言って、今座ったばかりのスツールから勢いよく降りた。
「あっ、ちょっと待ってください」
突然、女が声を上げた。
俺と木村は女の方を見た。
しかし女は何か続きを言うわけでもなく、スマホで文字を打ちながら誰もいない隣の空間に耳をそばだてるような仕草をしたように俺には見えた。
「あっ、いえ……なんでもないです。すみません」
女はスマホから目を離すことなく言った。
木村が俺を見て再び首を傾げると、目配せするように女の方を一瞥し、大丈夫かな、と声に出さずに口を動かした。
俺は、やめろ、というように小さく頭を振った。
俺は気を取り直して、木村に表の看板の設置とドアにオープンの札を提げるのを頼んだ。
「じゃあ、悪い、看板頼むわ」
木村は少し嬉しそうにしてドアへ向かって行った。
彼も彼なりに急にここのバイトを辞めたことに気がひけるところがあり、最後に少しでも何か手伝いたかったのだろう。
× × ×
この店に木村が初めて来たのは、開店して二年が過ぎた3年目の年だった。その頃になると、ある程度新規から馴染みになる客もできていた。
その中には、美樹目当ての客も少なくなかった。俺の経営戦略が功を奏したということだ。
最初、美樹のもつ暗いかげが気にかかり、努めて笑顔でいるように、という約束で雇ったのだが、思いのほか美樹は上手く演じていた。
それでも、その人間のもつ性質というのは滲み出るもので消えるということはなかったのだが、しばらくすると逆にそれが魅力にもなっているということにも気づいた。
事実、俺自身いつからか美樹のことが気になるようになっていた。
そんなふうに、美樹に心を奪われた男の一人に、警備会社の社員だという客がいて、その男が連れてきたのが、当時二十歳の木村だった。
その頃の木村はプロのミュージシャンを目指しながら警備員のバイトをしていて、最初の何度かはその警備会社の男に連れられて来ていたのだが、俺の店でライブをやるようになるのにたいして時間はかからなかった。
それから2年経ち、四周年を迎える頃になると、店はだいぶ軌道に乗っている状態だった。
定着したファンのいる出演者もいて、そういったライブを入れた週末には、客が入りきらないこともあった。
俺は酒を作ったりするために店には出ていたのだが、接客に関してはほとんど美樹に任せていた。
美樹は本人の意向で、大学卒業後は就職せずにそのまま俺の店でバイトを続けていて、仕事とプライベート両方で俺のパートナーになっていた。
俺は、人生が順調に回っている実感を味わった。
だが、美樹よりも俺を夢中にさせていたのは、経営というものだった。
自分のやってきたことが上手く結果に結びつく感触に興奮した。
なので、常連客の中には俺と美樹の関係に気づいて、結婚は? などと聞いてくる者もいたが、そういったことには、店が忙しくて……、などと適当にごまかしていた。
俺は更なる店の発展を目指してバイトを増やすことにした。
今度は美樹とは趣向を変えて、快活な女の子を雇おうと考えたのだが、それには美樹が猛反対した。
美樹は、あなたが経営に注力するのならむしろ店には男手が必要だ、と言いだし、俺が全く店に出なくなるわけではないから大丈夫だ、と言っても納得しなかった。
その時の美樹の頑として譲らない態度は少し異常なほどで、俺は根負けしたかたちで男を雇うことにした。
そして雇ったのが木村だった。