― 浮かんだノイズ ―
あの夜のことを思い出した俺は、背中に筋を引く冷たいものを感じながら空中をみつめていた。
視界の端には先ほどから変わらず木村の視線があった。
麻衣……いや、そうではない。黒いワンピースの女が言った。
「マスター、ちゃんと言ってください……」
俺はおそるおそる女の方へ視線だけ向けた。
女が誰なのかは分からなかったが、何のことを言っているのかは分かっていた。
いったいこの女は何者なんだ?
麻衣の家族?
あるいは親族か?
でも、何のために?
生前、麻衣に何か頼まれていた?
それなら、何を頼んだのだ麻衣は――
いや、待て、それはおかしい。
不慮の交通事故で、病院に運ばれてからもずっと昏睡状態だったはずだ。
誰かに何かを頼むような時間はない。
そんなふうに俺が思考を巡らせていると、待ちきれないというように女が言った。
「……裕典には才能がないって」
俺と木村が同時に、えっ? と声をあげた。
俺は思わず木村の方を見てしまい目が合ってしまった。
「あ、いや、それは……いや、違う、言ってないぞ俺は……」
俺は、女を見た。
「ちょっと、いったいなんなんだ。俺はそんなこと――」
「言いましたよ。ちゃんと、説明してくれたじゃないですか」
「マスター……マジかよ?」
押し殺すような声に、俺は再び木村を見た。
「違うんだ木村。あれはなんていうか……そ、そう、才能なんてものは元々誰にもないってこと。そもそも似たり寄ったりで、どれだけ努力して打ち込めるか、っていう熱意を持てることが重要ってことで……なっ、それを俺は言いたかっただけだから。お前だけのことを言ったわけじゃないぞ」
しかし、木村は、軽蔑をはらんだ冷ややかな目で俺を睨みながら言った。
「そうじゃねー、そんなことじゃねーよ」
木村の口調には明らかな怒りが込められていた。
女が割って入った。
「だって、裕典、諦めきれてないじゃない!」
木村は調子がくるったような怒りとも困惑ともつかない表情で女を見た。
「いや、だから今そこじゃ……」
女は真剣な眼差しで木村を見据えていた。
「このまま諦めても、自分を騙しきれないでしょ?」
木村は一呼吸おくと掌を前に突き出した。それは、女が話すのを止めようとしているふうにも、自分を落ち着かせようとしているふうにも見えた。
「ちょっと待ってくれ。そうじゃなくて……」
そう言って木村は俺を見た。
その目は感情を必死に抑えながらも、俺を非難するような目だった。
この男にこんな真に迫るような目ができるとは思わなかった。
しかしその目に、三年前にあの女が俺に向けてきたものと同種のものを重ねてしまい、吐き気が込み上げてくるのを必死で抑えた。
木村が口を開いた。
「マスターさぁ、何、麻衣のこと口説いて――」
「お前、才能ないよ!」
俺は慌てて、木村の言葉を打ち消すように遮った。そして、動揺に声が震えるのを抑えて俺は諭すように続けた。
「ホ、本当は……自分でも気づいてたんだろ?」
木村が顔をしかめた。
「はぁ? いやいや、そうじゃなくって、麻衣の……」
「お前にっ! 才能はっ! ないっ!」
俺は再び木村を遮り、呪いを討ち払うように言葉に合わせて三度、激しく木村を指差した。
すると木村は、黙って一呼吸ついた。
かと思うと、掴みかかってくるような勢いで喚いた。
「うるせーよ! 俺に才能がないとかどうでもいいわ、このエロおやじが! それより、なに麻衣を口説こうとしてたんだっつってんだよ。このハゲが!」
「はぁ? エロおや……って……ハ、ハゲてねーだろうが!」
俺は半分どうにでもなれという気持ちになっていた。
それよりも、怖《こわ》かったのだ。
木村が見せた目があの時のあの女の目と重なって――
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