― 静かな隣人 ―
「あー、うっせー。もう無理だ! ぶっ殺してやる!」
和雄の我慢はついに限界に達していた。
壁をいくら殴ってみても、一向に実況の叫び声が収まる気配はない。
和雄は勢いよく立ち上がるとキッチンに向かった。
ひかりはキッチンに入って見えなくなった和雄の方を不思議そうに眺めた。
すると、和雄の舌打ちする音が聞こえた。
「何してんの?」
ひかりがキッチンに向かって声をかけると、すぐに和雄が戻ってきた。
「くっそ。ホント、なんもねーなぁ……」
「しょうがないじゃん。いまさら何言ってんの」
「包丁一本もありゃしねぇ」
「え、ちょっとなに? 恐いんですけど」
「しゃあねぇ、丸腰で行くか」
「なにそれ、ヤクザみたい。っていうか、包丁あったってどうせ刺せやしないじゃん」
ひかりがちゃかすように言う。
「うるせーよ。そういう問題じゃねぇ」
和雄は拗ねたような顔をして玄関へ向かった。
ひかりも後をついていく。
「ホントに行くの? もう、やめときなって」
「だって、あいつ迷惑だろうが」
「ふふ……」
ひかりが笑った。
「なんだよ……」
「『迷惑』だって……」
「は?」
「ふふふ……」
「なんなんだよ」
ひかりが片眉をさげた。
「えー、だってさぁ、自分こそ、さんざん他人に迷惑かけてきたんじゃないの?」
「あ? え……あぅ……うっせー」
そう言うと和雄は、苦々しい表情でひかりから目を逸らした。
ひかりはニヤニヤと、痛々しい傷が残ったままの顔で笑っていた。
「ふふ……」
「言ってろ」
和雄は部屋から出て行った。
ひかりは和雄が出て行ったドアを見つめた。
その表情からゆっくりと笑顔が消えていく。
ひかりはため息をつき、踵を返してリビングに戻ると、再びベランダの窓から月を眺めた。
ふと、隣室からの実況が止まった。
それは、久しぶりの静寂だった。
突然、バタバタと大きな足音がドアの外のフロアから響いてきたかと思うと、すぐに凄い勢いで遠ざかっていった。
それからすぐに和雄が戻ってきた。
「あいつマジだせーぞ。ソッコー逃げてやんの」
和雄はそう言って楽しそうに笑った。
「なにしたの?」
「え? いや、ちょっとこう、眉間に力入れてガンつけてさ、そんでもって体中の気を眉間に集めてから、気合入れて、テメうっせーぞぅ!って言っただけだけど」
「なにそれ」
「まだまだやれるな、俺」
「バッカじゃないの?」
ひかりは呆れるように言った。
二週間が過ぎても、隣人は逃げたきり帰って来なかった。
だが、おかげで、ひかりは夜にぐっすりと眠れるようになっていた。
和雄のほうは相変わらずで、隣人がいようがいまいが、うるさかろうが静かだろうが、結局は夜ふかしの習慣はなおらないどころか、以前にも増して昼間眠っている時間が長くなっていた。
ひかりは先ほど起きたのだが、和雄はすっかり陽が昇って明るいのにまだ起きていて、ひかりが起きたのを見て、俺寝るわ、と寝始めた。
昨夜ひかりが、やっぱり夜にしっかり寝て、朝ちゃんと起きるっていうのが自然だよね、なんか体の調子がいいような気がするもん、と満足げに言ったのだが、それを和雄が鼻で笑わったため少し喧嘩になった。
ひかりは、すっかり熟睡している和雄を足で軽く小突く。
ふと、隣室に気配があることにひかりは気づいた。
何かガタゴトとやっているのが壁を伝って小さく響く。
ひかりは急いでベランダに出た。
隣室のベランダの窓が開いていた。
ひかりがそっと室内を覗いてみると、ひかりの両親と同じ年齢くらいの夫婦らしき二人が、静かに話しながら荷造りしていた。
ひかりは二人の会話に耳を傾けた。
会話からすぐに二人が実況ユーチューバーの両親だと分かったのだが、同時に、ひかりの頭の中は真っ白になってしまった。
えっ……?
あのゲーム実況者は、すぐ近くを走る旧街道へ夜中に飛び出したところを、車に跳ねられて死んだらしい。
和雄が脅しに行った夜のことだろうか……?
そう考えるのが自然だった。
必死で逃げ出した結果、勢いで近くの旧街道に飛び出してしまったのだろう。
その旧街道は夜になると車がほとんど通らない狭い直線で、逆に猛スピードで走る無謀運転の車が時々現れるポイントだった。
和雄のせい……?
ひかりはふと浮かんだそれを打ち消すように頭を振った。
和雄にはこの話はまだしないでおこう……
いつか知れるかもしれないが、今は自分だけの胸に留めておこう――
ひかりは静かにベランダを後にしてリビングへ戻った。